www.boots-room.com
BOOTS ROOM
Self Introduction
Topics
players Shirts / stuff
Autographs
Self Introduction
Contact us
HOME

読みきりコラム(日本サッカー史裏劇場)

 
意外と熱いファンタジスタ
「ファンタジスタ」という言葉を聞く機会今後は減少傾向にあるのか?バッジョ、デル・ピエロ、中村俊輔が活躍する一方ででファンタジスタ不要論を唱える監督がいることもまた事実なのである。そのファンタジスタ不要論を唱える監督の大半は個人技よりも組織重視、とかく「ファンタジスタは守備をしないくてもいい」という論調への反発ともいえる。という具合にとかくファンタジスタという類は、何かと物議をかもし出す対象となるケースが多い。80年代中期日本にも「守備をしない」との理由から代表落ちした選手がいた。明るくて面白い、そんなキャラクターは昼間のワイドショーでも登場した有名な人物、そうお馴染み水沼貴史である。

あれはソウルオリンピック出場目指した時である。(当時は年齢制限がなくフル代表が参加)80年代前半から代表の常連でもあった水沼が突然代表の選から漏れた。理由は前述の通り「守備をしないから」というもの、当時の石井義信監督は、この予選を勝ち抜く為にとにかくディフェンス重視の戦術を徹底させていた。そのあおりを受けたのがファンタジスタ系の水沼だったわけだ。

時には守備ラインに7人も8人も入ることが珍しくなかったこの守備重視の戦術、いくら卓越した技術を持っているとはいえ普通に考えても石井監督が日本代表を指揮している限り水沼が呼ばれることがないのは誰の目からみても明らかだった。しかしながら、水沼は違った。彼は誰の目も納得させるだけの結果で応えたというわけである。

日本リーグ当時は得点王の他にあったアシスト王というタイトルが存在した。いわゆる得点につながるようなパスを出した選手をカウントするこのアシストランキングでブッチぎりのトップに立ったいたのである。その記録は「17」その数字は日本リーグ史上最多であるのはもちろんそれまでの最多記録が「12」だった事からも、その記録のいかに凄かったのは容易に想像がつくだろう。

久々に呼ばれた国立競技場でのフルミネンセ戦。再び日の丸を背負う事になった水沼は途中出場すると前線から激しいプレッシャーをかけ続けた。それは代表を外された男だけが知る無言のメッセージだったのかもしれない。とかくファンタジスタは気持ちを表に出さないタイプが多いが、この時の彼はそんなことを言っていられない(なりふり構わず)状態だったのである。その後、ソウル五輪を目指すこのチームの中心となり、一度も代表から外されたことがなかったのは言うまでもない。
 

日本代表に土をつけた日本人選手
読売クラブ育ちで都並敏史とは親友、そんな戸塚哲也は実にユニークな過去がある。それは日本代表を破るゴールを奪ったはじめての日本人選手だからだ。ことの真相を簡単に説明しよう。現在も毎年行われる歴史ある大会キリンカップは、現在のようなAマッチではなく日本代表と欧米のクラブチーム、そして前年度の天皇杯王者が参加するのが通例であった。ということで1985年大会にはその前年天皇杯を制した読売クラブが参加するのだが、そこで注目されたのが日本代表選手で読売所属の加藤久、松木安太郎そして都並の3選手だった。

日本代表対読売クラブの試合のみどちらも3選手を起用しないのはどうだろうか?日本代表としてプレーさせるべきだ、などの意見もあった中、結局、彼ら3選手は緑のユニフォームすなわち読売クラブの一員としてこのキリンカップを迎えたのである。

5月30日、西が丘サッカー場でその歴史に残る一戦は幕を開けた。この試合もっとも気迫あふれるプレーを見せていたのは間違いなく戸塚哲也だったはずである。彼はかねてより「よりレベルの高い読売クラブでやった方が楽しいし、自分のレベルアップになる」という理由から日本代表辞退の意思を表明しており、当然この試合でそれを証明することになみなみなる闘志を燃やしていたのだ。

ワールドカップ1次予選を無敗で突破した日本代表ではあったが、この日は相手が悪かった。与那城、ラモス、戸塚、川勝、パターソン、トレドなどといった豪華布陣に加え日本代表でもレギュラー3選手のいる読売クラブ相手では・・・。試合を通じて「やりずらかった」ともらす選手が多かった中、戸塚のモチベーションはそんなことをはるかに上回っていた。0-0で迎えた後半33分与那城のパスを受けた戸塚の右足から放たれたシュートが日本代表ゴールに突き刺さったのである。

試合後当時の日本代表森監督の「屈辱以外何も残らない」という言葉がショックの大きさを物語っていた。「ミスマッチ」とも呼ばれたこの一戦で読売クラブの株はグンと上昇した。そして戸塚は、森監督の説得によりこの年の10月メキシコワールドカップアジア地区最終予選の韓国戦で彼自身最後となる日の丸のユニフォームに袖を通す事になる。彼の実力は誰もが認めるところで、突然の代表入りにも反対する選手は誰もいなかったのは当然といえば当然だろうか。
 

炎のストッパー、中山雅史

2002年日韓ワールドカップで背番号10をつけてピッチに立ったのは、炎のストライカー中山雅史、そうあのゴン中山である。その中山、根っからのセンターフォワードと思いきや、実はストッパー(センターバック)として活躍していた時期があったことをご存知だろうか?

藤枝東高校時代は2年生のときに高校選手権の舞台に立ったゴン中山は、3年生になると当然のように国体の静岡選抜に選出された。もちろんこの時の中山は藤枝東では押しも押されぬセンターフォワード、しかしながらこの時の静岡選抜には要所に好選手を揃えたいわばスター軍団だった。何といっても
センターフォワードを務めたのは清水のアイドル清水東のあの武田修宏。ちなみにFWには武田の他に江尻篤彦、青嶋文明などの好選手が揃う激戦区、このチーム(静岡選抜)限定で中山はストッパー転向を余儀なくされるのである。

しかしこのポジション転向が決して無意味だったわけではない。この直後に編成された日本ユース代表(20歳以下の代表チーム。ちなみにこの当時は年齢制限が8月1日以降生まれというのが条件だった)にストッパーとして選出されたのである。奇しくもその背後にいるスイーパーは大学時代を一緒に過ごすことになる井原正巳、この当時のストッパーとしての経験が後々センターフォワードとしてのポジション取りに生かされたのだろうか?筑波大学1年の時にレギュラーポジションを獲得した中山は、その後一気に日本代表選手、そしてワールドカップ戦士に登りつめることとなった。もちろん今度はセンターフォワードとしてである。

 

観客6万人の中で最も輝いた男
観客6万3196人と福田正博の関係って?福田の引退試合の総入場者数?ザンネ〜ン。
実はこの数字に89/90シーズンの日本リーグ2部リーグの211試合の総入場者数である。1試合平均なんと22人、ちなみに観客数不明の試合が29試合もあったことはお愛嬌か?

こんなあまりにも寂しい環境の中、このシーズン最も輝いていたのは三菱重工に入社したばかりの福田だった。しかし、彼が入団する前の三菱重工は楽観できる要素はまったくなかった。何といってもその体質の古さ、読売や日産が外国人選手を連れてきて好成績を収めたのとは対照的に純血主義を貫き、リーグ戦4度優勝の名門三菱の面影はそこから感じる事はできなかったほどである。

外国人のいない三菱の再建はいきなりのつまづきをみせた。開幕戦のホームでの住友金属戦、いきなりの敗戦、続くアウェーの京都紫光クラブ戦は4-4のドロー、そして第4節まで三菱はただの一勝すらもあげることはできず、完全にスタートダッシュは失敗に終わっていた。その三菱が浮上するきっかけとなったのは中央大学を卒業して入団した福田の類稀な得点力、新人ながら任されたPKをことごとく沈めチームの10連勝に大きく貢献したのである。

最終成績では三菱自工が優勝、福田は2位に9点もの差をつけてのダントツの得点王を獲得。チームを一年で一部リーグ復帰へと導いたのである。後にJリーグでも得点王を獲得する事になった福田の原点は、このシーズンにあったのかもしれない。
 

凍りついたミウラカズヨシという名前
お昼のひと時はやはり「笑っていいとも」に限る。毎回多彩なゲストで楽しませてくれるこの人気長寿番組にある人が登場した。司会者のタモリが「今日のゲストです。ミウラカズヨシさんです!ド〜ゾ」とお馴染みのフレーズで紹介する。外国語を日本語にしてクイズにするというコーナーで紹介されたのは紛れもないキング・カズ。しかしその名前を聞いたとき場内は一瞬にして氷のように凍り付いてしまった。

三浦知良の名前を聞いてサッカーファンならずしもピンとこない人はいないだろう。だから当然、場内が大歓声に包まれてもおかしくないのに・・・。実はこの時カズはまだ10代でブラジルへのサッカー留学生、ブラジルではもちろん日本でも知名度も低かった頃である。(一部のサッカーマニアと静岡県内のコアなサッカーファンくらいしか知らなかった頃)

更に不運な事に、この当時「ミウラカズヨシ」という名前=ロス疑惑の三浦和義だった時代、だから場内は一瞬して凍り付いてしまったのである。 さすがにこれを見たタモリはすかさず「あのミウラカズヨシが来る訳ないでしょ」とフォロー。そして次の瞬間、田原俊彦(チト古い)ばりのヘアスタイルの青年が登場して、そのコーナーも無事進行されたのである。今では絶対に有り得ないようなエピソードかもしれない。(いや、絶対に有り得ない!)
 

オッサンという一言に燃えた男
「口は災いの元」ということわざがある。
以前プロ野球の日本シリーズで、近鉄のピッチャーが思わず口を滑らせた。「相手(読売ジャイアンツ)はロッテより弱い・・・」それもそのはずこの時近鉄は3連勝で日本一に王手をかけていたからである。ところが、この一言が引き金となってその後巨人が4連勝で逆転優勝。こんな事を試合後のインタビューでわざわざ言わなければいいのに・・・と近鉄首脳陣が後悔したのも後の祭りであった。

さてさて、第71回天皇杯決勝。まさしくこの時のゴールデンカードとなったこの一戦、読売クラブ対日産自動車のカードはJリーグ開幕を目前に控えかなり注目されていた。(この試合、天皇杯決勝戦史上初の国立競技場が超満員となった試合でも有名)

その決戦を直前に控え、読売クラブのふたりの選手が深夜のスポーツニュースに出演した。元読売ジャイアンツの投手でもある司会者との話は大いに盛り上がっていた。しかし、ここである選手が口を滑らせてしまった。「(決勝の)相手はどこですか?オッサン自動車でしたっけ?」と飲み屋で話すようなネタを・・・しかも全国放送で披露してしまったのである。
この「オッサン」という言葉を受けてある男が怒りに震えた。

そう、ミスター日産(ニッサン)木村和司。日産自動車一筋で、チームを日本リーグのトップにまで牽引した彼にとってこんな言葉は単なる冗談と聞き流せるはずもなかった。「ワシは怒っているでぇ〜」と、誰もが近寄り難いほど木村の目の輝きはいつもと違っていた。カズの加入で日本一の人気チームとなった読売との対戦、ただでさえ燃えるこの伝統の一戦に例の「オッサン」という言葉で木村のモチベーションは沸騰寸前であったことは想像するにたやすいことである。

1-1のまま延長戦に突入、そしてその延長戦でついに木村和司の右足が唸りを上げた。まさしくこれぞ意地の一発。右足から放たれた強烈なシュートは、ゴールキーパーはまったく反応する事のなくゴールネットに突き刺さった。このシーンを見て、口を滑らせた読売の選手は「あ〜、あんなこと言わなければ良かった」と思ったことだろう。ちなみに失言をした張本人はこの試合、バルセロナ五輪アジア地区最終予選の為にベンチ入りさえもしていなかった。
 

Copyright 2003 BOOTS ROOM. All rights reserved.
上へ